10*22 ハンガリー ブダペスト/好きな音楽を聞いて町並みを歩くのが俺の旅の醍醐味の一つでもあった。だから昨日iPodをパクられたのが本当に痛い(~_~メ)本当は今日クロアチアに向かうつもりであったが、昨日悩んだあげく、これじゃ駄目だと思い、ハンガリーにもう一泊することにした!先ずは温泉や英雄広場などへ行った。周辺には大きな公園もあり、子供達が無邪気に遊んでいる。そんな姿をみてたら少し元気がでて、旅に対して前向きな気持ちになれた。昨日は王宮やくさり橋などみれなかったので、そっちへ向かった。昨日の事件現場マックを通った…。素直に王宮に行けば良かったと再び後悔した。少し丘を登り、王宮から見るドナウ川や国会は素晴らしかったし、ブダペストの街も見渡せ、テンションが上がった!漁夫の砦にも行った。そこでわ玉当てクイズのギャンブルをやっていた。一回200Euroで、しばらくみていたが、簡単であった。色んな人が200Euroを賭けて、外したり、当てて400Euroをゲットしている。そこでサクラと気がつくべきだった…。三つの箱の内、一人が外し、二分の一である。しかも横から見ていた俺は何処に入ってるかも知っている。馬鹿な俺は誘惑に負け、200Euroも賭けてしまった。ディーラーが開けると玉がない!そんなはずわない!磁石で細工してるはずだと解り、箱を取ろうとしたら断られた。俺もブチ切れ、ディーラーの首根っこを掴んだら、周りにいたサクラ達が服の影からナイフを見せてきた。これじゃ、勝てないと思ったし、馬鹿なのは俺の誘惑に負けた心である。手を離し、しばらくペテン師達を睨みながら観察していた。1番悪いのは俺のは俺の欲である、解ってるけど、200Euroはかなり痛い、よくそんな大金を賭けた自分にも驚きつつも反省した(-_-;)知らない観光客も普通に騙されている。騙され泣いている子もいる…。金に目が眩んだ俺がいけなかった…。近くでタバコを吸っていたら、アジア系の女の子に話しかけられた。俺はまたかよ!と内心思いながら、その子を疑う目でみた。『あなたも騙されたの?』って英語で聞かれ、俺は素直に話した。その子も騙されたらしい。騙された振りして俺をまた騙すつもりかと疑って話した。その子はカウ゛リィンと言って、可愛いらしい、マレーシアの23歳の女の子。俺と同じバッパーではあるが、物価の安いヨーロッパだけを廻ってると言った。マレーシアに住んでるため、英語と中国語が話せる。日本の事も多少知っていた。俺は昨日のiPodや今日の俺の欲を悔やんでる事を伝えた。するとペンと紙をとりだし『破財消炭』と書いた。(実際は炭でなく、似ている中国語を書いた、入力が出てこないから炭にしました)。どういう意味?ってきいたら『お金や物は失ったけど、良いことは必ず貴方に訪れるから』みたいな事を言っていた。自分の財布からマレーシアの一リンギ札を取りだし、お守りに取っといてと言われ渡された。人を何処まで信用していいか判らないけど、感動した!俺も御礼がしたく、自分の持っていたモンスターズインクのマイクの人形をあげた。風景だけじゃ寂しい時にマイクを出し、一緒に写真を撮っていた。そしたらカウ゛リィンも同じような事をしていて、イエティーの人形と一緒に風景を撮っていた。なんか親近感を覚えた。一緒に丘を下りながらマレーシアや日本の事をお互い笑いながら話した。せっかくだしコーヒー飲まない?と言われたが、俺は気持ちをリセットしたかったのでビールが飲みたいと言った、彼女はあまり飲めないと言ってたが付いて来てくれた。彼女とはロキシタン、ジャスコ、寿司の話しで盛り上がった。特にジャスコのメンバーズカードを持っていて驚いた。マレーシアには百円ショップもあるらしい。夕飯も一緒に食べる事になり、お米が恋しいじゃない?と聞かれ、うん って言ったら、彼女が食事所にしている中華料理屋に連れていってもらった。安いしボリュームもある。中華料理が大嫌いな俺でも自然に食べれた。食事中にお互いの旅の写真を見せあった。夜の王宮の写真が凄く綺麗だった。俺が見に行きたかったな~と言ったら、カウ゛リィンは昨日も行ったはずなのに、一緒に行ってくれた。なんで案内してくれるの?と言ったら、ハンガリー最後の夜だし、貴方にも見てほしい、きっと嫌な思いでも和らぐからと励まされた。本当に綺麗だった!俺は明日クロアチア、カウ゛リィンはチェコに行く。連絡先を交換して、カウ゛リィンをHOSTEL迄送った。カウ゛リィンは本当に良い子だった。初めに疑ってしまった自分が恥ずかしいけど、正直、人を何処まで信用して良いのかがわからなくなる…。でも、カウ゛リィンから元気を貰った!カウ゛リィンが言っていた『破財消炭』って、カウ゛リィンと出会えた事なのかなと少し思った。最後に綺麗な夜景が見れて良かった!
フェイスブックを薦められたので、外人の友達を増やしたいので、俺も登録するぞ!!カヴァリン、写真写り悪いけど、実はこんなに綺麗です
http://www.facebook.com/home.php#/profile.php?v=photos&id=1706996439明日から気を引き締めて旅するぞ!
概要
ハンガリー共和国の首都で、産業、商業、交通におけるハンガリー第一の中心都市。人口は1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。ドナウ川の両岸に広がった都市で、右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。両岸の地区を結ぶ代表的な橋がセーチェニ鎖橋である
歴史
記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。ドナウ川の対岸にあたる現在のペシュト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていた。
900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がアールパードに率いられ、パンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国を形成した。ハンガリー王国における重要都市となったペシュトは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入を受ける。ベーラ4世の下で、すぐに復旧されたが、1361年にハンガリーの首都となったのはオーブダの少し南に位置し、1247年以来王宮所在地であったブダであった。
16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服すると、首都の座を失ったブダペストの発展は一時停滞した。ペシュトはモハーチの戦いによってハンガリー王国がほぼ壊滅した1526年にオスマン帝国によって侵略された。1541年にはブダが占領され、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となった。一方のペシュト地区はこの時期ほとんど見捨てられていた。1526年以降、名目だけにはなっていたが、オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねていた。ハプスブルク家は1686年に王国領を奪回した。
1723年、王国の行政組織が置かれたペシュトは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになった。ブダとオーブダの合計より多かったペシュト地区の人口は、この世紀の間に20倍の600,000人に増え、ブダとオーブダの5倍になった。
3つの地区を単一の行政に統合する試みは、1849年のハンガリー革命政府によって最初に一時的に行われたが、これを鎮圧したハプスブルク帝国によって撤回され、1867年のアウスグライヒによって成立したオーストリア・ハンガリー帝国下でオーストリアから自治を獲得したハンガリー王国政府によって最終的に実現された。合併して成立したブダペスト市の総人口は、1840年から1900年に7倍となる73万人に増加した。
1975のブダペスト地図20世紀の人口の増加は、主に郊外で起きた。工業化による都市の発展により、ウーイペシュト(Újpest, 新ペシュト)は、1890年から1910年の間に人口が2倍以上になり、キシュペシュトは、1900年から1920年の間に5倍以上になった。第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は首都にも一時的な打撃を与えたが、オーストリアとの分離により主権国家となったハンガリーの首都になった。1930年までには、都市の人口が100万を超え、さらに郊外には40万人が住んでいた。
第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストで3番目に多いユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡した。それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復しなかった。共産主義政権(1947年 - 1989年)によって、1960年代から実用的な目的のためにいくらか都市が拡張された。1980年代からは、ハンガリー全体と同様に、移住による人口増加と人口の自然減少の釣り合いが取れている状況である。