国際標準化機構 1947年関連エントリー

ISO

ISO 国際標準化機構 (International Organization for Standardization) 工業・農業産品の規格の標準化を目的とする国際機関 ジュネーブに本部を置く1947年に設立された民間の非営利団体

ISO

今日は何の日? 9月11日

... 撤退 1945年 GHQが東條英樹ら戦犯容疑者39人の逮捕を指令 1947年 沖縄社会党結成 1949年 明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が ... 翌年プロレスに転向 1952年 国際標準化機構(ISO)が日本の加入を承認 1953年 京都で国際応用物理学会開催。 ...

今日は何の日? 9月11日

今日は何の日? 5月15日

... 発売 1941年 フランスで国民解放戦線組織レジスタンスを結成 1947年 徳島県鳴南市が鳴門市に改称。3月15日の市制施行の2か月 ... 森首相が「日本は天皇を中心とした神の国」と発言 2000年 国際標準化機構(ISO)がISO-HTML(ISO/IEC 15445)を発表 今日の花言葉 ...

今日は何の日? 5月15日

アンリ・シャルパンティエが洋菓子業界国内初「ISO22000」を取得

... UKAS 1947年に設立された、国際標準化機構の発祥の地である英国に本部が 置かれている最も歴史と権威あるISO認定機関。世界での認知度は群 を抜く。 *BSI(英国規格協会) 1929年に英国王室の認可を受け、現在110ヵ国以上でシステム認証 ...

アンリ・シャルパンティエが洋菓子業界国内初「ISO22000」を取得

たかが文書、されど文書管理

... ISO 国際標準化機構。 ISO (International Organization for Standardization) 各国の標準化協会の国際機関のこと。1947年設立で本部はスイスのジュネーブ。 品質管理規格( ISO 9000シリーズ)、環境マネジメントシステム( ISO 14000シリーズ)が有名。 ...

たかが文書、されど文書管理

国際標準化機構 1947年旅行記

横浜線の歴史的痕跡を探す ~東神奈川-八王子間編 明治領歌【建造中】~(by 横浜臨海公園さん)

国際標準化機構 1947年
横浜線は一昨年開業100周年を迎えました。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出物と言えば「生糸」です。
当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されておりましたが、国内外でも高評価で1等品と認定されていたのは、長野県産品と群馬県産品でした。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出されます。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送ルートが、日本鐵道(高崎→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と単純で運賃も安価で済んだのに対し、長野県産品は、官設鐵道(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・官設鐵道(品川→横濱間)と数社に跨る事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、後手にならざるを得ず、明治30年代後半ともなるとその差が歴然として深刻な状況を招来します。

此の為に八王子から横濱に向けて鉄道建設を願う声は日に日に高まったものの、明治政府は横濱線が政府建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とし財政に余裕が無く、故に、民間の出資に依り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に『横濱鐡道株式会社』が設立され、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注されます。

当時は現在の如くインターネットで簡単に入手すべき可能な時代では無く、船便でのやり取りで発注するものであり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になりました。

明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線が開業します。

当時は横濱鐡道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと想像されます。

横濱鐡道開業の頃より国内知識層が軌間拡大論が展開される。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容を理解も吟味をし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となります。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内に台頭します。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐡道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始します。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職し改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫します。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対しましたが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後のなり此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果です。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(明治3年、1870年1月2日~昭和17年、1942年2月5日)は田中義一内閣の鉄道大臣在任中に私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ『私鉄疑獄事件』を起し、小川は鉄道大臣経験者と言ふ親任官職にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され裁判に付され大審院『現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処され位階剥奪されるが如く此の手の政友会代議士は国益より利権に走狗する行為が露骨で『我田引鉄』を得意とします。

政友会の後塵直系組織たる現在与党の○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業まで留保され日を見る事はありませんでした。

標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる『鐵道院横濱線』として新たなる出発をします。

国立公文書館に保存されている当時の公文書本文に政府の本心が垣間見れる。

因みに文中の「新宿線」とは現在の山手線です。


横濱鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鐡道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト
二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト
三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト
四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト
但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト
五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト
六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト

右閣議ヲ請フ

明治四十三年一月十八日

内閣総理大臣 侯爵 桂太郎


横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂太郎 殿


当時の山手線は現在の様に複々線で客貨が分離されてる構造にはなっておらず複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は国策上必要不可欠であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった事が垣間見える。

即ち、借与中に於ける民有所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。

後年、昭和初期に政府が鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ『富士身延鐵道』を我が国に於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。

殊に、昭和12年(1937年)7月2日に日華事変が勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化します。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化します。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止。
然も、戦後になり我が国の超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然となり、故に、各方面から買収資産変換と無償払下運動が勃興しましましたが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は鐵道省や運輸通信省にタダ取りされたと言ふ根深い恨みを残す事になる。

東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐡道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐡道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与されたものです。

よく横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名される。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し横浜-神奈川駅間が180メートル弱しか離れていない為に前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった次第です。

鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正12年(1923年)に工事着手をします。
然し、工事途中に関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になりましたが、電化に関する要員教育研修を兼ね当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転が開始されます。

東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化します。
横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議されます。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車の国産化を成功したとは申せ、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造費とC51型蒸気機関車2輌分に相当し、当時の鐵道省の予算内の新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入するなど論外的見解と言ふべきであり、実際に不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より概電化区間に於いて電車運転が開始されます。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転されます。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無くモハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転されました。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化しても1時に1本の運転は変わりありませんでした。

また残りの原町田-八王子駅間には昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始します。

昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鉄道(現小田急電鉄)、相模鉄道と共に戦時体制に組込れてます。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極めます。
特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鉄道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築されました。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が1時間に1本牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなります。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たす為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転されます。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設されます。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鉄道所属駅相模原駅は、鉄道省から開業を直前に重複を避ける為に『小田急相模原駅』に改称を命じられます。

大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された『横浜大空襲』に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京浜線仲木戸駅付近で焼夷弾に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされました。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過して運転されます。
同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかります。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車の発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぎます。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎が全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地が日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設されます。

大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れます。

現在の横浜線は純然たる通勤通学路線です。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残ってます。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古レールは横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てです。


表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用されたレール群と横浜線用205系電車

【旅行時期】2009/08/05~2009/09/20
【エリア】相模原
【テーマ】歴史・文化・芸術
【投稿者】横浜臨海公園

二二八和平公園と総統府・台湾大学医学部付属病院(by 悠太郎さん)

国際標準化機構 1947年
 台北駅周辺をゆるりと散歩して巡りましょう。
総統府は、9:00~12:00まで(入場は11:30位まで)で土日休みなので要注意です。普通は、総統府の案内員によるガイドで日本語に多少の難があるみたいですが、運が良いと日本語世代のボランティアガイドにつくことがあります。僕は、今回運良くこのボランティアガイドの陳さんに案内してもらえました。一時間以上丁寧に説明してくれました。何故、台湾人は植民地支配をした日本のことが好きな人が多いのか説明してくれました。それは、オランダ軍の侵入以来最も良い統治をした外来政権だったからだそうです。

 また二二八とは、1947年2月28日に起きた当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人との大規模な抗争のこと。約40年後、戒厳令の終了と政府側の遺族への謝罪により漸く終結した。本省人はこの事件を台湾大虐殺と呼んでいる。その抗争の中心地の一つが当時台北新公園と呼ばれていた公園で、1996年2月28日、当時の陳水扁台北市長(後に中華民国総統)は二・二八事件で犠牲となった台湾住民を追悼する二二八和平紀念碑を建立し、公園の名称を二二八和平紀念公園に改めた。そして2月28日は和平記念日になった。(ウィキペディアより)

【旅行時期】2010/02/27~2010/03/14
【エリア】台北
【テーマ】
【投稿者】悠太郎

墨田区役所と東京スカイツリー(建設中) ☆平和のオブジェは大作(by マキタン2さん)

国際標準化機構 1947年
墨田区は、昭和22年(1947年)3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。
 そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けられました。それは、昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称“墨堤”の呼び名の「墨」からと、“隅田川”の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものです。(下記より引用)

墨田区役所については・・
  • http://www.city.sumida.lg.jp/


  • 墨田区の観光については・・
  • http://www.kanko-sumida.com/


  • 東京スカイツリー(Tokyo Sky Tree)とは東京都墨田区押上に建設中の電波塔である。自立式鉄塔で計画・着工当初の高さを610.58mとする予定だったが2009年10月16日に高さ634mに修正、自立式電波塔の高さ世界一を目指すことを発表した。2008年7月14日に着工し、2011年12月から遅くても2012年早春に竣工の予定。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

    東京スカイツリーについては・・
  • http://www.tokyo-skytree.jp/


  • 【旅行時期】2009/12/22~2009/12/22
    【エリア】浅草
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】マキタン2

    卑しい人間になってしまった俺。。。。 ハンガリー ブダペスト2(by kawabekentarouさん)

    国際標準化機構 1947年
    10*22 ハンガリー ブダペスト/好きな音楽を聞いて町並みを歩くのが俺の旅の醍醐味の一つでもあった。だから昨日iPodをパクられたのが本当に痛い(~_~メ)本当は今日クロアチアに向かうつもりであったが、昨日悩んだあげく、これじゃ駄目だと思い、ハンガリーにもう一泊することにした!先ずは温泉や英雄広場などへ行った。周辺には大きな公園もあり、子供達が無邪気に遊んでいる。そんな姿をみてたら少し元気がでて、旅に対して前向きな気持ちになれた。昨日は王宮やくさり橋などみれなかったので、そっちへ向かった。昨日の事件現場マックを通った…。素直に王宮に行けば良かったと再び後悔した。少し丘を登り、王宮から見るドナウ川や国会は素晴らしかったし、ブダペストの街も見渡せ、テンションが上がった!漁夫の砦にも行った。そこでわ玉当てクイズのギャンブルをやっていた。一回200Euroで、しばらくみていたが、簡単であった。色んな人が200Euroを賭けて、外したり、当てて400Euroをゲットしている。そこでサクラと気がつくべきだった…。三つの箱の内、一人が外し、二分の一である。しかも横から見ていた俺は何処に入ってるかも知っている。馬鹿な俺は誘惑に負け、200Euroも賭けてしまった。ディーラーが開けると玉がない!そんなはずわない!磁石で細工してるはずだと解り、箱を取ろうとしたら断られた。俺もブチ切れ、ディーラーの首根っこを掴んだら、周りにいたサクラ達が服の影からナイフを見せてきた。これじゃ、勝てないと思ったし、馬鹿なのは俺の誘惑に負けた心である。手を離し、しばらくペテン師達を睨みながら観察していた。1番悪いのは俺のは俺の欲である、解ってるけど、200Euroはかなり痛い、よくそんな大金を賭けた自分にも驚きつつも反省した(-_-;)知らない観光客も普通に騙されている。騙され泣いている子もいる…。金に目が眩んだ俺がいけなかった…。近くでタバコを吸っていたら、アジア系の女の子に話しかけられた。俺はまたかよ!と内心思いながら、その子を疑う目でみた。『あなたも騙されたの?』って英語で聞かれ、俺は素直に話した。その子も騙されたらしい。騙された振りして俺をまた騙すつもりかと疑って話した。その子はカウ゛リィンと言って、可愛いらしい、マレーシアの23歳の女の子。俺と同じバッパーではあるが、物価の安いヨーロッパだけを廻ってると言った。マレーシアに住んでるため、英語と中国語が話せる。日本の事も多少知っていた。俺は昨日のiPodや今日の俺の欲を悔やんでる事を伝えた。するとペンと紙をとりだし『破財消炭』と書いた。(実際は炭でなく、似ている中国語を書いた、入力が出てこないから炭にしました)。どういう意味?ってきいたら『お金や物は失ったけど、良いことは必ず貴方に訪れるから』みたいな事を言っていた。自分の財布からマレーシアの一リンギ札を取りだし、お守りに取っといてと言われ渡された。人を何処まで信用していいか判らないけど、感動した!俺も御礼がしたく、自分の持っていたモンスターズインクのマイクの人形をあげた。風景だけじゃ寂しい時にマイクを出し、一緒に写真を撮っていた。そしたらカウ゛リィンも同じような事をしていて、イエティーの人形と一緒に風景を撮っていた。なんか親近感を覚えた。一緒に丘を下りながらマレーシアや日本の事をお互い笑いながら話した。せっかくだしコーヒー飲まない?と言われたが、俺は気持ちをリセットしたかったのでビールが飲みたいと言った、彼女はあまり飲めないと言ってたが付いて来てくれた。彼女とはロキシタン、ジャスコ、寿司の話しで盛り上がった。特にジャスコのメンバーズカードを持っていて驚いた。マレーシアには百円ショップもあるらしい。夕飯も一緒に食べる事になり、お米が恋しいじゃない?と聞かれ、うん って言ったら、彼女が食事所にしている中華料理屋に連れていってもらった。安いしボリュームもある。中華料理が大嫌いな俺でも自然に食べれた。食事中にお互いの旅の写真を見せあった。夜の王宮の写真が凄く綺麗だった。俺が見に行きたかったな~と言ったら、カウ゛リィンは昨日も行ったはずなのに、一緒に行ってくれた。なんで案内してくれるの?と言ったら、ハンガリー最後の夜だし、貴方にも見てほしい、きっと嫌な思いでも和らぐからと励まされた。本当に綺麗だった!俺は明日クロアチア、カウ゛リィンはチェコに行く。連絡先を交換して、カウ゛リィンをHOSTEL迄送った。カウ゛リィンは本当に良い子だった。初めに疑ってしまった自分が恥ずかしいけど、正直、人を何処まで信用して良いのかがわからなくなる…。でも、カウ゛リィンから元気を貰った!カウ゛リィンが言っていた『破財消炭』って、カウ゛リィンと出会えた事なのかなと少し思った。最後に綺麗な夜景が見れて良かった!
    フェイスブックを薦められたので、外人の友達を増やしたいので、俺も登録するぞ!!カヴァリン、写真写り悪いけど、実はこんなに綺麗です
  • http://www.facebook.com/home.php#/profile.php?v=photos&id=1706996439

  • 明日から気を引き締めて旅するぞ!



    概要
    ハンガリー共和国の首都で、産業、商業、交通におけるハンガリー第一の中心都市。人口は1980年代半ばの207万人が最高で、それから若干減少し現在は180万人である。ドナウ川の両岸に広がった都市で、右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペシュト(ペスト)の3地区からなる。これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。両岸の地区を結ぶ代表的な橋がセーチェニ鎖橋である



    歴史
    記録の残されている限りでは、ブダペストの歴史は89年頃ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近くに建設した都市アクインクムに始まり、アクインクムは106年から4世紀の終わりまで、ローマ帝国のパンノニア州の州都であった。ドナウ川の対岸にあたる現在のペシュト地区は、コントラ・アクインクム(「アクインクムの反対側」という意味)と呼ばれていた。
    900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がアールパードに率いられ、パンノニアと都市を占領し、1世紀後にハンガリー王国を形成した。ハンガリー王国における重要都市となったペシュトは、1241年にモンゴル帝国のバトゥの征西軍の侵入を受ける。ベーラ4世の下で、すぐに復旧されたが、1361年にハンガリーの首都となったのはオーブダの少し南に位置し、1247年以来王宮所在地であったブダであった。
    16世紀に入ると、オスマン帝国がハンガリーのほとんどを征服すると、首都の座を失ったブダペストの発展は一時停滞した。ペシュトはモハーチの戦いによってハンガリー王国がほぼ壊滅した1526年にオスマン帝国によって侵略された。1541年にはブダが占領され、ハンガリー中央部を支配するオスマン帝国属領としてブダ州が設置されて、ブダがオスマン帝国の総督の駐留地となった。一方のペシュト地区はこの時期ほとんど見捨てられていた。1526年以降、名目だけにはなっていたが、オーストリア大公のハプスブルク家がハンガリー王を兼ねていた。ハプスブルク家は1686年に王国領を奪回した。
    1723年、王国の行政組織が置かれたペシュトは、18世紀から19世紀に急速な成長を遂げ、ブダペスト全体の発展の大部分に貢献するようになった。ブダとオーブダの合計より多かったペシュト地区の人口は、この世紀の間に20倍の600,000人に増え、ブダとオーブダの5倍になった。
    3つの地区を単一の行政に統合する試みは、1849年のハンガリー革命政府によって最初に一時的に行われたが、これを鎮圧したハプスブルク帝国によって撤回され、1867年のアウスグライヒによって成立したオーストリア・ハンガリー帝国下でオーストリアから自治を獲得したハンガリー王国政府によって最終的に実現された。合併して成立したブダペスト市の総人口は、1840年から1900年に7倍となる73万人に増加した。
    1975のブダペスト地図20世紀の人口の増加は、主に郊外で起きた。工業化による都市の発展により、ウーイペシュト(Újpest, 新ペシュト)は、1890年から1910年の間に人口が2倍以上になり、キシュペシュトは、1900年から1920年の間に5倍以上になった。第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は首都にも一時的な打撃を与えたが、オーストリアとの分離により主権国家となったハンガリーの首都になった。1930年までには、都市の人口が100万を超え、さらに郊外には40万人が住んでいた。
    第二次世界大戦中の1944年のドイツ軍による占領以来、ブダペストで3番目に多いユダヤ人のうち200,000人が、ナチス・ドイツの虐殺によって死亡した。それに続くソ連軍の占領によって、さらに人口は減少し、1950年代から1960年代になるまで回復しなかった。共産主義政権(1947年 - 1989年)によって、1960年代から実用的な目的のためにいくらか都市が拡張された。1980年代からは、ハンガリー全体と同様に、移住による人口増加と人口の自然減少の釣り合いが取れている状況である。


    【旅行時期】2009/10/22~2009/10/22
    【エリア】ブダペスト
    【テーマ】
    【投稿者】kawabekentarou

    日本の旅 関西を歩く 大阪のカオサン・JR新今宮駅南側周辺 (by さすらいおじさんさん)

    国際標準化機構 1947年
    JR大阪環状線新今宮駅南側周辺はあいりん地区(釜ヶ崎)と呼ばれる日本最大のドヤ街・寄せ場(日雇労働者の就労する場所)として知られている。
    あいりん地区には路上生活者が数多く居住し治安が悪く、これまで1961年から何度も暴動が起こっている。1990年には阪堺線南霞町駅が放火されて全焼し、近隣店舗が破壊されるという大規模な暴動があった。1992年以降バブル崩壊とともに大規模な暴動は起こっていないが小規模なものは時々起こっている。
    JR新今宮駅の北側は通天閣・新世界・でんでんタウン・フェスティバルゲート・スパワールドなどが並ぶ観光地となっており近年は日雇労働者向けの簡易宿所の一部が海外・国内から日本・関西を旅するバックパッカー向けの安宿に改造されている。確かに日本は海外と比べて安いホテルが少ないので1泊800円くらいから宿泊できる宿は若者には喜ばれ「大阪のカオサン」と呼ばれている。JR新今宮駅の南側は危険地区で北側は比較的安全地区といえるが中南米を歩くと街に危険地域と安全地域があったのと同様のようだ。
    黒岩重吾(くろいわ じゅうご1924-2003年)の1961年の直木賞受賞作品「背徳のメス」、はるき 悦巳(はるき えつみ1947年- )の漫画「じゃりン子チエ」、1960年公開の邦画「がめつい奴」などあいりん地区(釜ヶ崎)を舞台にした文学・映画作品も多い。
    あいりん地区に隣接する山王町「てんのじ村」は昔から芸能人が活躍した新世界に近く、劇場の出演者らが1950年代には300人以上住んでいたといわれる。
    難波利三(なんば としぞう1936- )は直木賞受賞作品「てんのじ村」で漫才師の半生を描いているが、ミヤコ蝶々、人生幸朗、平和ラッパ、海原お浜・小浜らも「てんのじ村」から人気者に育った。現在は往時の姿はなく漫才の父、秋田實(あきた みのる1905-1977年)筆の「てんのじ村記念碑」が阪神高速の阿倍野入口横にひっそりと立っている。
    あいりん地区周辺は問題視されることが多いが浪速文化を育ててきた大阪らしい場所であることは間違いない。
    (写真は「てんのじ村記念碑」)


    【旅行時期】2009/08/25~2009/08/25
    【エリア】ミナミ(難波・天王寺)
    【テーマ】歴史・文化・芸術
    【投稿者】さすらいおじさん